《自己紹介》 と 《趣味の履歴書》

    
氏名 渡辺 明
生まれ 1950年春 神奈川県川崎市
職業 現在は無職です。2011年末に退職するまでは自動車部品会社のサラリーマンを38年間勤めました。
住い
(転居履歴)
50年〜56年; 神奈川県川崎市
56年〜73年; 東京都目黒区(学生時代は横田、厚木、羽田に通いました)
73年〜77年; 埼玉県大宮市(主に自衛隊機の写真を撮っていました)
77年〜90年; 埼玉県鴻巣市(主に自衛隊機の写真を撮っていました)
90年〜94年; 社命にて米国、ロスアンゼルス事務所に駐在しました
         (ロス周辺には米軍機が沢山いたので、写真マニアにとっては本当に天国でした)
94年〜96年; 埼玉県鴻巣市(仕事が忙しく、たまに自衛隊の航空祭に行くぐらいでした)
96年〜2009年; 社命にて米国テネシー州ナッシュビル郊外の事務所に駐在しました。
         (テネシー周辺には面白い米軍機がおらず、2000年にはプラモ作りに転向しました)
2009年〜2010年; 社命にてメキシコ、アグアスカリエンテスの工場に1年間駐在しました。
         (スペイン語がわからず、ひたすら自宅にこもってプラモを作っていました)
2010年〜2011年末; 社命にて再び米国、テネシー州、ナッシュビル郊外の事務所に駐在しました。
2012年〜現在; 埼玉県鴻巣市に在住


趣味の履歴書

1、小学生から学生時代

プラモ趣味の経歴を遡ると、小学校高学年頃から熱中していたプラモデルにたどり着きます。三共のピーナッツシリーズを沢山作って 箱の中に並べて遊んでいたのを思い出します。当時は近所に模型屋さんがあちこちに有って、小生は子供のころ都立大学駅と 自由が丘の模型屋さんに良く自転車で通っていました。中学校に入ると外国製のプラモに憧れて新橋のステーションホビーにも 時々行きました。レベル、モノ、エアフィックス、リンドバーグ、ホークと憧れの箱(高根の花)が並んでいました。特に興味の有った モノグラムの大戦中米海軍機シリーズ(1/48)はお小遣いを全部はたいて買ったものです(下写真)。中でもヘルダイバーが特に 気に入っていて、可動部をしょっちゅう動かして遊んでいました。



(上段左)小学生時代はまだプラモがあまり出回っておらず、木製の軍艦のキットを組み立てて遊んでいました。 戦艦大和を自慢げに見せている向かって右側の子供が小学4〜5年頃の小生です。 (上段右)中学生時代の憧れはモノグラムのプラモ。一番左が中学時代の小生です。 (下段左)中学時代の作品。憧れのモノグラム1/48のヘルキャット。糸(丸見え)で吊って撮影した当時自慢の作品。(下段右)これも 中学時代のプラモ。縁側の上に置いた輸送艦(レベル)の上をモノの1/48ヘルダイバーが飛行する。これも糸が丸見えです。

高校時代にカメラに興味を持ち出して、初めて買った(正確には”買ってもらった”)一眼レフがキャノンFXでした。初めてマトモ なカメラを手にして、初めは色々なモノを写していましたが、飛行機関連では手近な羽田空港へ行き送迎デッキで旅客機の撮影を 始めました。大学に入った頃からは、お金の方も少し余裕が出来て『航空情報』とか『航空ファン』を毎月買うようになりました。 当時はベトナム戦争ネタが多くの紙面を占めており、横田や厚木にも多くの機体が飛来していることをようやく知ることになりました。 今にして思えば、中学や高校時代にそのような情報に触れ興味を持っていたら、もっともっと早くから軍用機の写真を写し始め ていただろうと思い、大いに悔やまれます。

2、写真撮影の本格スタート

じゃあ僕も横田で写真を撮ろう、と思い立って初めて横田へ出掛けたのは1968年だったと思います。でも何の予備知識も無しに 一人で出掛けたので、初めは遠くから恐る恐るF-4やC-141を写していました。だからシリアルもまともに読めないダメ写真ばかり でしたが、それでも本人はそれなりに満足して、帰宅後は早速現像をしていました。何度か行く内にマニアの方々から少しづつ撮影 情報をいただき、69年頃になってようやくマニアの皆さんが撮影している横田ドライブイン等の撮影スポットで撮影を始めました。 同じ頃から厚木にも足を運ぶようになり、多い時には1週間で4日間ぐらい出撃していました。



上の4枚はいずれも初めて横田へ行き、拝島側エンドの遥か遠くから恐る恐る撮った写真です。豆粒ほどにしか写っていない機体 を引伸し機で目一杯拡大したら、勿論粒子がザラザラになりました。それでもその時は自己満足していたんですね。”ヤッター!”って。

3、初めての海外旅行

海外に興味を持つようになったのも大学に入ってからでした。当時はヨーロッパに興味が有り、大学時代に2回ヨーロッパへ行きました。 当時は格安航空券など無くて、貧乏学生はシベリア経由で行くしか方法は有りません。だから日本出発は横浜港からでソ連の貨客船に 3日間揺られてナホトカの港に入りました。小生が初めて見た外国の景色はうらぶれたナホトカ港の桟橋でした。そこから鉄道に乗り 替えてハバロフスクへ行き、そこからアエロフロート便でモスクワまで飛びました。そこから先はまた鉄道の長旅に耐え、ようやく西ドイツ 又はオーストリアに抜けられました。そんな退屈な長旅ですが、マニアにとって忘れられない出来事もありました。モスクワ便は当時 Il-62が就航していましたが、1度だけ機材トラブルにより代替えのTu-114に乗ることが出来ました。一般のお客様にとっては最悪の 機体でしたが、小生だけは飛び上がらんばかりに喜びました。騒音の激しいキャビンから外を見ると巨大な二重反転プロペラが力強く 回転しており、正にTu-95ベア爆撃機の乗員になった気分です。またシベリア鉄道の窓からは数機のTu-16バッジャーが雪に覆われた 空軍基地に順番に着陸する様子を見ることが出来ました。

学生時代の欧州旅行は飛行機の撮影を主目的として出掛けた訳ではありません。だいたい軍用機に関してはどこへ行けば何が撮れる のかもわからないのが実態でした。でも、少なくとも旅客機だけは写そうとヒースロー(London)やシュキポール(Amsterdam)では カメラを持って送迎デッキから撮影しました。どちらの空港にもマニアの一団が見晴らしの良いカフェテリアに陣取ってさかんに 情報交換をしていました。ほとんどはレジ番号を集めるスポッター達です。この一団の中には軍用機に興味のある写真マニアも多く、 そこでの出会いが、その後20年以上に渡り熱中した海外マニアとの写真(主にスライド)交換の切っ掛けとなりました。また二度目 の欧州旅行(1971)では、この仲間が小生を自宅に泊めてくれ、近くのシューステルベルグ空軍基地(USAFEのF-4Eが駐留)まで連れて 行ってくれました。誘導路の近くに絶好の撮影ポイントが有りF-104が135mmレンズであふれる近さです。これが小生の訪れた最初の 外国空軍基地でした。


上の2枚はいずれも初めてヨーロッパへ行った時に写した写真です。当時は民間旅客機にも興味を持っており、それだけ撮れれば満足と 思っていました。左上は1970年8月にウィーンの国際空港で、又、右上は同じ月にロンドンのヒースロー空港で撮影しました。

4、海外とのスライド交換スタート

欧州から戻り現地で会った写真マニアと写真(最初は白黒ネガ)を交換し始めたのは1971年春からでした。当時日本で写した飛行機の 写真は欧州のマニアの間ではとても珍しく、次から次へと大勢の写真マニアが小生の所へ写真交換を希望して手紙を送ってきました。 小生は当時米軍機と自衛隊機にしか興味の無い典型的な日本のマニアだったので、ライトニングやキャンベラの写真を送られても、 最初はあまり喜びませんでした。しかし、その中に紛れて送られてくるUSAFEのF-4の写真が欲しくて、どんどん写真の交換相手を増や していました。1年も経つと、ライトニングやキャンベラの写真も沢山集まり、そうなると米軍機以外のNATO機も全部揃えたくなって しまい、更に交換相手を増やしていきました。

5、社会人になって

海外マニアとの写真交換を増やしていく内に、海外のマニアの間でやり取りされている飛行機写真はコダクロームスライドが本命で あることがわかってきて、小生もそれに合わせて1972年12月からコダクローム25(KM)を使い始め、白黒での撮影は大幅に減らし ました。また欧州のマニアに紹介してもらい米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの写真マニアとも スライド交換を拡大していきました。一番多い時には50人以上の海外マニアとスライドを交換していました。となると、こっちも それだけ沢山のスペアスライドを用意する必要が有り、スペアスライドの大量生産が始まりました。


自分で写したスライド、そして海外のマニアからもらったスライドは、上の写真の様な事務用ファイルキャビネットの中に20枚入り スライドフォルダーを吊り下げて整理していました。整理の仕方は国別、機種別、飛行隊別にフォルダーの中に区分して保管してきました。

そこで考えたのが、基地の外から撮るのではなく、許可を取って中(エプロン上の列線)で撮ることでした。また、海外写真マニアの間 では標準レンズで写した列線写真が一番好まれることもわかってきたからです。そこで、1972年より時々六本木の防衛庁(空幕 広報及び海幕広報)を訪れ、各地の自衛隊航空基地の写真撮影を申請してきました。大半の場合は許可をいただき、列線内で1機づつ 写真を撮らせていただきました。これでスペアスライドはかなり増やせました。もっとも80年代に入ると列線内での撮影は制限される ことが増え、しだいに広報を通じた撮影申請は控えるようになりました。

社会人となって2年目の1974年、小生の好奇心と興味を引き付けたのは、欧州での軍用機撮影でした。その頃までには欧州各地 にスライド交換の仲間がおり、彼らの助けを得て英国、オランダ、西ドイツで飛行場回りをしました。翌75年にはいよいよ米国の 基地めぐりを企画して、西海岸のアチコチの基地の広報班に撮影許可の申請書をばら撒きました。ほとんどの基地は小生の訪問を歓迎 してくれて、わずか10日間ぐらいの短い旅行でしたが、大戦果をあげて帰国しました。この時もスライド交換の仲間達が全行程を フルサポートしてくれました。


左上は74年夏に英国RAF St.Mawganのエアショーの朝に写しました。第七飛行隊の標的曳航用キャンベラです。この時も英国のマニアが サポートしてくれて、小生は一般立入禁止の第七飛行隊専用エプロンで撮影出来ました。右上は小生が75年夏に初めて行った米国での 撮影です。NAS.Moffett Fieldの外来機列線に駐機するSP-2Hです。これは小生にとって最初で最後に撮った米海軍現役ネプチューン でした。ジェットエンジンのインテーク側面に描かれたシャークマウスに注目ください。(VP-69, PJ-8, 148359)

スライド交換の仲間には、現地で助けてもらうだけではなく、ギブ&テイクで彼らが日本へ来た時には全面的にサポートしました。 1975年から1985年ぐらいの10年間で延べ20人以上の人達をサポートしてきました。当時はまだ日本に来る海外の写真マニアは 少なく、それだけに日本滞在中の旅行ノウハウがまだ彼らの中に共有化されていませんでした。実は彼らを日本でサポートすると 美味しい『見返り』も有ったんです。それは、日本国内の米軍基地内で彼らと一緒にエプロンで列線の写真を標準レンズで撮れた んです。いつも基地の外から遠くに見ていたあのF-4やA-4が目の前に横たわっているチャンスには大いに興奮したものです。


左上は76年に英国マニアの一団と一緒に厚木のMidwayの列線に入れてもらい写しました。下にしゃがんでフィルムを交換している "P"さんは多くの本(主に写真集)を欧州で発表しています。右上は79年に別の英国人マニア達と一緒に岩国で撮影しました。ここに写 っている"L"さんや"C"さんも多くの執筆本を発表しています。これら厚木や岩国での撮影の機会は、小生にとって美味しい『見返り』でした。

6、自衛隊航空紹介本の出版

海外のマニアと交流していく中で、彼らが自衛隊機の情報(シリアル、部隊マーク、飛行隊の歴史、等々)に飢えていることがわか ってきました。そこで小生は海外マニア向けの自衛隊機の解説本を発行することにしました。当初は英国のマニアと協力して英国の 出版社から発売する予定でしたが、最終的には話がこじれて、小生の自費出版となりました。まだ小数部の売れ残りがありますので 興味のある方は小生までメールしてください。格安でお譲りします。発行は1984年で全200ページ、写真は大半が白黒で、解説 は英文です。


上の2枚の写真は上述の自費出版本です。海外マニアが特に興味を持つ空自の尾翼マークの解説(由来や変遷)にも多くの紙面をさきました。

7、長い米国駐在の時代

1990年2月に社命によりロスアンゼルス近郊のトーランス市にある駐在員事務所へ赴任しました。飛行機写真マニアの小生に とっては正に天国の赴任地でした。当時はロス近郊にジョージAFB、MCASエルトロ、車で2時間南下すれはNASミラマーと魅力の 基地があふれていました。ロス事務所に駐在した4年半で、州空軍基地も含めてあちこちに出歩きました。ここでもスライド交換の 仲間達が色々な形でサポートしてくれました。基地内に入るのはさほど難しくないので、基地の外で撮影することはありませんでした。 西海岸では純粋な軍用機ではなく、Nナンバーを付けた旧軍用機も沢山現役で飛んでいました。その典型は森林火災消火機で、 P-2, P-3, S-2, C-130, C-119, C-54, OV-10といった機種がバリバリの現役でした。森林火災のニュースを聞いたら、その週末には よく撮影に出掛けました。その他にもエドワーズAFBの隣のモハービ空港にはFlight Systems(F-4,F-100,F-86,T-33)やAvtel社(F-4) のジェット機群が並んでおり、撮り放題でした。



上段の2枚はカリフォルニアの森林火災消火機の基地です。左上はHemet基地で、手前がO-2、中央は新旧カラースキームの S-2が2機並び、その後方はC-54改造の消火機。左遠方はまだ空軍迷彩を残したC-130消火機。右上写真はPorterville基地 の管制塔及びP-2。下段2枚はモハービ空港で撮影したもので、左はDC-130(3機が常駐)、右はFlight Systems社のF-100Fです。 これら民間飛行場での写真撮影は、作業を妨害しない限り全く自由に撮り放題でした。

1994年6月に一旦日本へ帰国しましたが、1996年6月には社命にて2回目の米国ご奉公が始まりました。残念ながら今回は あまり面白い軍用機がいないテネシー州のナッシュビル郊外でした。更に悪いことに着任早々から仕事が超多忙で、最初の1年間 はどこへも出掛けるヒマが無く、数少ない休日は死んだように寝ていました。たまに近隣州のエアショーに行っても、見学者が 機体の周りにへばり付き、クリーンな写真はほとんど撮れません。しかも並んでいる戦闘機群はUSN/USMCのロービジのF/A-18か USAF/ANGのF-16ばかりで、もういい加減飽き飽きして急速に軍用機撮影への興味を失って行きました。


二十数年間続いたカラースライドでの飛行機撮影は、この日を持ってキッパリ止めました。最後のスライド撮影は98年5月の NAS Meridian(ミシシッピー州)でのエアショーでした。左はデモ飛行に向かうTA-4J。右はエアショーのために駐機スペースを取り 上げられて狭いエプロンにすし詰め状態となったT-2CとTA-4Jの一群。

8、50歳でプラモ作りに転向

小生は元々60歳になって退職したらプラモデル作りを再開し、ゆっくり老後を過ごすのが夢でした。しかし、長年の米国単身生活の寂しさ も手伝って、切りの良い50歳の誕生日(2000年)をもって10年早くプラモデルの解禁宣言をしました。最初に作ったのはハセガワの 1/72のF/A-18C。二作目はハセガワの1/32のF-5E。三作目はタミヤの1/32のF-14Aでした。現在のように時間をかけて作り込む こともせず、これら3作をたった1年で仕上げました。ハッキリ言ってどうしようもない駄作ばかりです。でもその中でスジ彫り技術や 塗装技術などの基本を徐々に習得してゆきました。4作目(アカデミー1/48のT-33)からは一応自分なりに合格点を付けて、今でも日本へ 持ち帰り自宅に飾っています。


左の写真は現在の自宅(埼玉)に飾ってあるプラモデル群。全て米国で組上げて日本まで大事に持ち帰りました。 これからも日本で作り続けます。右写真は米国のあちこちのプラモコンテストでいただいたトロフィーと楯です。

その後はプラモデル一筋になりました。その完成品の一部はこのホームページに掲載致しましたが、今後も増やしていく予定です。小生の現在の生涯目標は 前述アカデミーのT-33を第一作目として合計100機を完成させることです。しかし2014年1月現在ではまだ20機しか完成しておらず これから余程頑張らないと目標達成は難しそうです。小生の興味は60〜80年代に現役で配備されていた、冷戦時代の軍用機です。 機種や国籍は問わず、スケールも1/32、1/48、1/72と何でも作っています。

米国駐在時代はIPMS-USAのMiddle Tennesseeチャプターに入会し、毎月第一月曜日夜に例会がありました。会員は年配者が中心で 中高生2〜3人も含め20人前後が参集しました。皆が夫々自分の制作途中の模型を持ち寄り、一人づつ順番に苦労話や自慢話を 披露する月例会でした。また年に数回はメンバーが得意分野(フィギュアの塗装やパネルラインの彫刻等)のテクニックを実演・披露 していました。小生はスキル向上を目標にしてIPMS-USA主催のプラモデルコンテストに積極的に出品していました。ローカルチャプター (地方クラブ)のコンテストに比べて年一回のナショナルコンテスト(全米コンペ)の方が質・量共に圧倒的にレベルが高く、2009年、 2011年と2013年にはこの全米コンテストに挑戦しました。製作開始時点から全米コンテストへの出品を目指し、自分で納得出来るまで細部を作り 込み、満を持してコンテストに持ち込みました。下の2枚の写真は、その全米コンテストの展示エリアです。幸いにしてこれら2作品 は、夫々のカテゴリーで優勝の栄誉をいただきました。


左の写真は2009年IPMS-USA全米コンテストの風景です。手前のF-14A(青系の迷彩)が小生の出品した作品です。 右の写真は2011年IPMS-USA全米コンテストの風景です。右手前のCH-113(黄色のヘリ)が小生の出品した作品です。

9、細部写真にこだわって

小生のポリシーは、模型を作る前に自分の目でその機体の上から下まで実機の外観を徹底調査することです。調査結果の記録手段は カメラ(静止画)とビデオカメラです。ビデオカメラの利点は気が付いた事を画像と共に音声を使って記録に残せることです。 例えば気になる部位の寸法を測って測定データを音声で記録に残したりするのにはとても便利です。もう一つ小生がこだわっているのは 胴体や主翼の上面の細部写真を撮ることです。スコードロン社のWalk Around誌を見ても、翼の上面や胴体上面の鮮明な細部写真は ほとんど掲載されておりません。それは撮影が困難だからです。ハセガワもタミヤもトラペもF-14の主翼上面に並ぶ小判型パネルの 筋彫り箇所が実機と全く異なります。それは恐らく翼上面の詳細写真が当時は入手出来ず確認出来なかったのでしょう。

そこで小生は色々と工夫してみました。一番簡単なのは、実際の機体の上に乗せてもらい上面の撮影をすることです。しかし、実際に そのような機会を得られることは稀です。次なるアイデアは、一脚の上に雲台を介してカメラを固定し、それを上に高く持ち上げた状態で 脚立の最上段に立ち、約4〜4.5メートルの高さから機体の上面を撮影します。 当H/Pの細部写真ページではその様にして撮影した上面写真を数多く紹介しております。博物館でもエアショーでも断って 写せばその様な上面撮影は可能でした。


左の写真は上述の一脚に雲台を介して取り付けられたカメラ(写真はビデオ用)です。右の写真はこの一脚を使いピマ博物館 でMiG-23の胴体上面を写しているところです。胴体上面にこの一脚とカメラの影が映っています。小生は脚立の上に立ち、そこから 一脚を高く持ち上げています。シャッターレリーズは有線リモコンを使いますが、リモコン線の影が右写真の下側に写り込んでいます。

10、博物館行脚

上述の通り生涯で100機種を完成させる目標を2005年に策定し、機種リストも作りその中でまだ自分で実機調査をしていない機種を リストアップしてみました。するとヨーロッパやソ連機はほとんどが手付かずであることがわかりました。それじゃあ大西洋を渡って 欧州の博物館めぐり(現地調査)をするしかありません。でも会社勤務をしていれば夏休みは最大2週間です。そこで3か年計画を立て 2006、2007、2008の3年間の夏休みを全て使って、計画的に欧州の航空博物館を巡回することにしました。最終的には3年間ではカバー しきれない機種が残り、結局2011年の夏休みにも大西洋を渡ることとなりました。当H/Pではこれらの細部写真の一部を掲載しており ます。脚立は欧州にまでは持っていきませんでしたが、長めの一脚を持参して出来る範囲で機体上面にはこだわって撮影をしてきました。 これまでに訪れた日・米・欧の航空博物館のリストを参考までに『博物館リンク』にまとめて掲載しておきます。


左の写真はサンディエゴの海軍ピアに係留された空母Midwayの航空博物館です。甲板後部には多くの海軍機が展示されています。 艦橋に書かれた艦番号『41』が見えます。右写真はフランスのSavigny-les-Beauneにある個人所有の博物館です。ここにはフランス機を 中心に米軍機、NATO機、ソ連機がブドウ畑の中に沢山展示されています。塗装の退色は進んでいますが、保存状態は悪くはありません。

11、たまにはデジカメで

プラモ作りを始めてから、現用機の撮影(細部写真は除く)にはすっかり興味が薄れてしまいました。ましてや滑走路の端で、いつ来るか わからない着陸機をじっと待っているなんて、小生にとっては『時間のムダ』と思うようになってしまいました。変われば変わるもんですね。 まあそれでも、エアショーに行った時だけは、昔を懐かしんで現用機の写真を撮っています。 もっとも手にしているのはデジカメですがね。プラモを始めてからは、エアショーに行ってもほとんど細部写真ばかり撮っています。その昔は 展示機の周りでチョロチョロと細部写真を撮っている方々がちょっと邪魔だと思っていたんですが、今では自分が周りに気を使いつつもチョロ チョロしています。ここ十数年は週末のエアショー以外には外撮りなどで飛行場へ出掛けることが全く無くなりました。何故かもう興味が湧か ないんです。最近はこの倦怠病が更に進んでしまい、エアショーの日程さえあまりチェックしなくなりました。これからはプラモ一筋に頑張ります。 以下に慣れない(ha-ha!!)デジカメで写したエアショーの写真を何枚か貼り付けます。


(上左) 2008年ベルギーのFlorenceでSpotter's Dayに写したポーランドのSu-22M4。(上右) 2011年オーストリアのZeltwegエアショーで写した スロバキアのMiG-29。 (下左)2012年ネリスのエアショーで写した Draken International社のA-4L。(下右)2012年烏山のエアショーで写した 韓国空軍Black EaglesのKA-50.


写真とプラモ以外のヒコーキ趣味

1、子供の頃の夢

上記の如く小生の米国滞在年数は通算ほぼ20年間となりました。その機会を利用して子供の時に憧れたパイロットになる夢を少しでも 実現したくて操縦学校に入学しました。目標は仮免許を取得して単独飛行を成功させることです。英語で書かれた分厚い航空法規の本や 気象学、航空工学などの英文教科書を全て読破して筆記試験を受けることなど最初からさらさらヤル気は有りません。とにかく他人の 助けは一切受けず、自分一人の力で飛ばすことに挑戦できればそれでよかった、という最初から『いい加減な操縦学生』でした。

そのいい加減な操縦学生の訓練結果ですが、グライダーと軽飛行機(小型動力機)については悪戦苦闘の結果、以下の通り何とか初単独飛行に 成功させました。ヘリコプター(ヒューズ269C、自衛隊の呼称はTH-55)にも挑戦しましたが、遊びで飛ばすには訓練費が余りにも高く、しかも ホバリングの難しさに立ち往生してしまい、小遣い銭が無くなって途中で投げ出すこととなりました。

以下に2つの動画を掲載します。1つ目はグライダーで初の単独飛行を行った時に、グライダー仲間の先輩がビデオカメラで撮ってくれた離陸 と着陸の動画です。心臓はバクバク状態でした。再生時間は4分30秒です。画面を拡大する場合はyoutube画面の右下端の『拡大ボタン』を クリックしてください。また、繰り返しご覧になる場合は画面左下端の『繰り返しボタン』をクリックください。

2つ目の動画はダイアモンドDA-20で単独飛行をする3ヶ月前に教官と共にタッチアンドゴーの訓練をしていた時の動画です。教官に操縦をお願い して、ランウェイ32での周回パターンを操縦席から撮りました。ダウンウインドから撮影を開始し、ベース、ファイナルを経てタッチダウンし、 更にフルスロットルで再離陸するまでの動画を掲載します。再生時間は3分55秒です。

小心者の小生が初の単独飛行でどれだけ緊張していたか(本当は怖かった)、次の録音テープを聞いていただくと良くわかります。これ以上緊張 すると小生の声は裏返えってしまいます(Ha-Ha!!)。Runway#1の手前で管制塔にコンタクトし離陸許可を取る時の交信が『これ(クリック)』です。 管制官が小生に"Runway ONE"と2回繰り返しています。そんなこと普通では有り得ません。初の単独飛行だと知って、敢えて念を押しているんです。 離陸して2回タッチアンドゴーを繰り返したら、ようやく気持ちが落ち着いてきて、最後の着陸(Full Stop)許可を取る時はかなり落ち着いて交信 しています。『こちら(クリック)』を聞いてください。これはダウンウインド上での交信ですが、風向きは"020"でほとんど滑走路(01)に正対しており 風速7程度の風であれば小生のようなヨチヨチパイロットでも充分着陸させられます。そこで何とか着陸したのですが、滑走路から誘導路への左折 指示を管制官が出し忘れており、こちらから『左折していいか?』と催促するハメになりました。『こちら(クリック)』を聞いてください。これにて 『恐怖と感動』の初単独飛行は目出度く終了しましたが、ホッとして誘導路アルファをランプに向かってタキシングしている時に、真正面から差し 込んでいた夕日のまぶしさは一生忘れません。



上段の2枚はタンデム複座のSchleicher ASK-21です。グライダー滑空場とは言っても吹き流しが無ければ周りの牧場と何ら変わり ありません。上段左の写真は曳航機に引っ張られて離陸するASK-21で、グライダー側が先に地上を離れます。上段右の写真は夕暮れ時に 曳航されて離陸するASK-21です。下段の2枚はDiamond Eclipse で、喜びと恐怖の体験を小生と共にしてきた愛機322 Delta Charlieです。 小生が訓練を受けた飛行学校の所在するスマーナ空港は1971年までSewart AFBと呼ばれ、TAC(314AW)のC-130(テールコード"ST")が配備 されていました。左下の写真の背景に見える格納庫群は、かつてのC-130用の格納庫です。現在でもテネシー州軍のUH-60が駐留しています。

よちよち歩きの学生パイロットの私見で言えば、離陸も着陸も軽飛行機に比べてグライダーの方がずっと難しく感じました。特にグライダー の着陸はベースからファイナルに入り高度を失っていくと、やり直しがきかず一発勝負でのタッチダウンを強いられるので、とても緊張した ことを思い出します。それとは反対に軽飛行機の離陸は実に簡単で、無風状態であれば未経験者が2〜3回練習すれば誰でも離陸させられる ように思われます。しかし、軽飛行機で日本人が一番悩むのはタワーとの交信です。ルーチンでの交信に慣れたとしても、イレギュラーな指示 が時々飛び込んでくるので、飛行場周辺では常にドギマギしてながら飛んでいました。

2、ラジコン機と遊ぶ

2008年頃のある日、日本でお客様を訪問し打合せをしたのですが、そのメンバーの中にラジコン機を飛ばしている人がいて、いきなり 感化されたんです。その時点で小生はあと数年後に日本へ帰任することになっており、日本へ帰ったらでラジコン機を飛ばそうと考えた訳です。 何故ならば、日本に帰ったら米国駐在時代のように実機を自分で安価に操縦することは出来ません。そうなったら、実機を飛ばす代わりに ラジコン機でも飛ばして、自分が飛んでいるような気分を少しでも味わおうと思った訳です。我慢出来ないタチの小生はテネシーに戻って 直ぐにホビーショップへ行きました。

最初は何もわからないんで、店員さんに薦められた『超初心者用』(正確には子供用)のトレーナーを80ドルぐらいで買いました。 頭も禿げた60歳近いオヤジが子供用のラジコン機セットを買って店を出るのは正直言って恥ずかしかったです。でも心の中では孫への プレゼントを買ったんだと思い込ませてお店を出ました。家に帰ったら早速ワクワクしながら組み立てました。プロポもバッテリーも充電器 も全て揃ったキットでわずか80ドルは信じられない安さでした。それでも翼幅は65センチぐらいで発泡スチロール製でした。早速風の 弱い日に近くの広場へ行き、いきなりの初単独飛行です。ラジコン機の経験者でしたら容易に想像が付くと思いますが、手投げ発進させて から墜落するまで、20秒も持たなかったです。そしてそれを10回ぐらい繰り返したら、もうバラバラになって、わずか1日でスクラップ となりました。


この3枚はいずれもナッシュビル市営のラジコン機専用飛行場で朝早く写しました。左端の写真では朝焼けが残り周囲の草原一面に 朝霧が立ち込めています。中央の写真はここの飛行場の整備場(?)ですが、朝日を浴びてバッテリーの交換をしています。右の写真は舗装 された滑走路(白のセンターラインが見えます)から離陸する我が愛機です。これは3チャンネルの安物ですがね。

同じモデルの二機目を早速買い込んでまた飛ばしましたが、少しづつ学習効果が出てようやく1分以上空に浮かしておけるようになりました。 そこでもう少し上級の(子供用から高校生用かな)ラジコン機を購入しました。それでもオール込みキットで180ドルです。勿論電動の 3チャンネル機です。しかし、この180ドルの機体も最初の手投げ発進後わずか20秒で頭から墜落し、胴体が割けました(Ha-Ha!!) 実機の操縦の方がずっと簡単だ、と思ったものです。その後もかなり高い授業料を払いながら少しづつ操縦テクニックを独学で覚えていき ました。現在は5チャンネルの電動機を風の弱い日に限り近くの河川敷で飛ばしています。ようやく離着陸をこなせるようになりました。 埼玉在住の方で小生のラジコン指導教官になっていただける方は是非連絡をお願い致します。

Youtube動画を2本用意しました。いずれもナッシュビルのラジコン機専用飛行場で早朝に飛ばしている時の映像です。左の動画は飛行 中にたまたまガチョウの大きなV字編隊が小生のラジコン機に迫ってきたのです。その直後のドタバタ映像(25秒間)が左の動画です。 右の動画はタッチアンドゴーの練習をしている時の映像(7分弱)ですが、何しろ事故が多くて独学ではなかなかうまくなりません。 因みに、画面を拡大する場合はyoutube画面の右下端の『拡大ボタン』をクリックください。また、繰り返しご覧になる場合は画面左下端の 『繰り返しボタン』をクリックください。


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次の動画は、2013年6月に埼玉県の荒川河川敷でラジコン機に小型カメラを取り付けて撮影した6分55秒の動画です。

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